メディア・アートの原論は可能か?(「メディア・アート原論」の感想文)

published: 2018-05-09

last modified: 2018-11-28

「メディア・アート原論」(久保田晃弘+畠中実編、フィルムアート社、2018年3月発行)を読んだ。

読んだ上で文章を書くが、これは書評と言えるようなものにはなっていない。自分は既に編者の二人と直接話しをしたことがあり、考えのバックグラウンドを平均的な読者よりは知ってしまっているのが大きい。

その上で自分は二人が(暗に、と言うまでもないだろう)批判する商業的なメディア・アート、エンタメ的なものにもある程度足を突っ込んできたので、その上で考えたことなどを書く。

ポスト・インターネットとメディアアート

この本は久保田晃弘、畠中実の対談―3度に渡って分けて収録されたようだ―を編集したものをメインにして、それらの議論を補足する短い記事2つ、現代のメディアアートにおける重要なキーワード9つ、それから2006年以降の日本を中心としたメディアアートの代表的作品を列挙する年表で構成されている。

メイン部分である、対談形式の部分は大きく2008年頃まで2008~2018年頃までそれ以後について考えていく形を取っている。重要なのはこの本がメディアアートの歴史を語ろうとしているのではなく、それに通底するものを考える「原論」を考えようとしていて、その上で歴史を3分割している点だ。何故この時代区分で3分割なのか?というのは、真ん中、2008~2018年をいわゆる「ポストインターネット」的状況として捉えて、そこに至るまでの経緯とその後、という分け方になっているからである。

自分はメディア・アート原論というタイトルで、一つのキーワードとしてポストインターネットが重要だとは思っていたがここまで議論の中心的な存在になるとは思っていなかったので少し意外だった。

これは、ポストインターネットに対する議論自体も未だ収束しきってないし迂闊に説明もし難い所なのだが、iPhone登場以降などの「インターネットの接続されているのが当たり前の状態」=ポストインターネット的状況からの作品制作を考えることが逆説的に「当たり前になった技術の背景にあるもの」または「表現の支持体」を暴く的機能を持つ作品が編者二人にとって重要であることとリンクしているから、という解釈をした。

実際この対談2章目は原論と呼ぶだけあって、特に興味深かったのはマクルーハンのメディアを強化/衰退、回復/反転という4項で分析するフレームワーク、テトラッドをデジタルメディアにおいて再考する**「デジタル・メディアのテトラッド」と美術批評家ロザリンド・クラウスの論文Sculpture in the Expanded Fieldにおけるダイアグラムを美術表現の支持体全般に拡張したもの「展開された場における支持体」**の2つの図である。

(少なくともこの本で議論されている)メディアアートの一つの特徴はメタ的に表現構造に自己言及するもので、あるいは逸脱していくことなので議論が難しくなっていくわけだが、そのメタ性を議論の土台にしてしまうのは一つの分析の足掛かりには出来るのではとは思う。

対談形式の原論は可能か

一方でうーん、と思った点。この本を読んで対照的だなと思ったのは2014年の馬 定延日本メディアアート史のアプローチだった。

日本メディアアート史は元々日本のメディアアーティストの藤幡正樹についての研究からスタートしたものだが、代表的作品を挙げることを殆どせずにその背景の社会的状況や代表的展覧会―大阪万博やキャノンアートラボ、草月アートセンター、NTT インターコミュニュケーションセンターなどについての歴史を語ることで芸術史とするというアプローチを取っている。

国内外を問わず、言葉の射程が定まっていないなか、本書では「メディアアート」を作家と作品と観客を取り囲む環境としてのテクノロジーの発達に伴う社会現象として、またそれに対するアーティストの取り組み方の問題として定義してみたい。この開かれた定義は、日本におけるメディアアートという大賞を、アートという狭い文脈から開放し、日本の現代史の中に明確に位置づける事を可能とする。

(中略)

〜本書は個別の作家や作品ではなく、その背景をなす時代像に焦点をあててみる。すなわち、本書はメディアアートの作品論と作家論を可能な限り排除して書かれたメディアアート史である。このような方法論が、究極的には、全ての表層的な要素、移り変わっていく背景を取り除いたあとに残る、メディアアートの本質たるものを強調することを目的にしていることは言うまでもない。

馬 定延「日本メディアアート史」15~17p

本書のイントロなどは日本メディアアート史でまとめられた議論をベースにしている事が伺えるものの、対談という形式はこのアプローチの真逆と言ってもよく、語っている人間の思考の流れをトレースしていくような読み方をせざるを得ない。恐らく事前にかなり話の流れを示し合わせているだろうし、収録後の編集も相当行われているのは見て取れるが、それでも話の流れとして予め論旨の骨が決まっていて底に向かっていくというよりも、所々で話が逸れていく印象も受けてしまった。

無論、これはこれで議論の糸口であったり、代表的作品がいたるところに散りばめられているので、初学者のための入門書としてはいいのかもしれない。しかし全体を通してこれを原論と言うには少し厳しく、原論のための第一歩、がいうところで、新書寄りの学術書・・・いやそこそこ固めの新書、と言う方が適しているように見えた。

そもそもフィルムアート社の紹介文を読む限り初学者のための入門書、とあるのでこういう指摘をすること自体が的はずれなのかもしれない。

メディアアートという言葉の中心

ところでAmazonではかなり厳し目のレビューがついているわけだが、これもメディアアートをある客観的な目線で語ることの困難さをよく表しているといえるだろう。このレビュワーが一体どんなバックグラウンドの人間なのか全くわからないし、レビューが妥当なものだとも思わないけれど、「メディアアート」と言うものが指すイメージは人によってもう全然異なるものとなってしまっている、という現状だけは押さえておく必要があるのではないか。

それだけに、はじめの章でGoogleキーワードでのmedia art/digital art/video artsの年代別ヒット数のグラフから傾向を読み取るという客観的なデータからの観察を最初にしていたのはかなり面白かった一方、文化庁による漫画やアニメも含めた意味での「メディア芸術」という言葉は横においておきましょうとして議論されなかったのは残念だった。現状として「メディアアート」という言葉が指してしまっている広さ、何故エンタメまでもそう呼ばれるているのか?という事実の分析はもう少しあっても良かったのではないだろうか。

商業主義と批評の不在

ここからは本の感想そのものから少し外れる。

本書ではあとがきでも強く触れられているように「エンタメでもビジネスでもなんでもメディアアートでいいわけでは無い」という立場を(特に久保田は強く)取っている。

このエンタメ・ビジネス的なメディアアート問題と批評の不在の話は大きく結びついていると感じている。

1年ほど前、「メディアアート文化史構築のためのデータベースとインターフェイス研究会というワークショップ/研究会に参加した。ちなみにこの会には久保田も一般参加者として参加していて、本書に書かれているような内容の話を多く聞くことも出来た。

実施報告書PDF(WSについては86pから)

このワークショップはメディアアートの文化史やそのデータベース・アーカイブをどう構築していくか?という事が主題だったのだが、議論の中で大きくあがったのは作品の批評の不在についてだったり、そもそもメディアアートの文化史とは何なんだ、的な話だった。それを終えてしばらくはエンタメ的なアートと批評の関係性についてよく考えていた。

元々エンタメ的なメディアアートの発生がどこなのかについても誰かまとめてほしいわ、という気分だが、そもそもは作品を作りながら飯を食っていく為の一つの選択肢として「アートで名前を売ってクライアントワークで金を稼ぐ」というやり方がある。クライアントワークはアート作品で使っている技術を上手く転用した、デジタル広告である場合もあれば、全く関係ないWebの受託開発だったりと色んなパターンがあるがライゾマティクスやチームラボの黎明期も基本的にそうだった(はず)。

この流れで出てくると、普通のアーティストのような「作品が評価される→新しい制作の環境や資金が提供される→また新しい作品をつくる」というような流れを取ることはない。最悪作品が売れたり評価されなくても活動が続けられるからである。広告仕事で名前を知ってアート作品のファンになるようなことも起きるので批評を受けなくてもなんとかなってしまう。

アーティストが生きていくだけならこの状態でも十分なのだが、文化史として残すとなったときには作品の批評は不可欠だ。これは特にメディアアートという分野においては尚更で、作品のアーカイブの難しさとも結びついている。映像記録だけで映像メディアをメタ的に捉えた作品を記録する事が難しいように、メタ的作品を体験そのものとして記録することが困難であることは、反転して作品の主観的体験の記録、そして見出された作品と作品同士の関係性の記録としての批評など文章の価値を高めることにも繋がる・・・と思う。

だから、エンタメだろうとなんだろうと勝手に批評する人が出てくればそれでいいと思うのだが、多分そこを解決するには批評自体のエコシステムが変わらない限り大きく状況が動くことは無いように思う。解決法はまだよくわからない。

前述のWSの中で印象に残っている発言として松井茂さんが「テクノロジー的な要素を含む作品の批評となると技術的なことについて精通してないと評価しちゃいけないように思えちゃうけど実際はそんなこと無くて、批評ってのはもっと自由にやっていいもののはずなんだよね」という趣旨の事を言っていた(全然違ったらごめんなさい)。

(ついでにいうと松井さんは「久保田さんは自分の活動に関することの批評は結構ぼやっとしてること多いよね」という感じのことを本人に言っていた(これもうろ覚えだが)のも記憶に残っている。実際今回の本を読んでいても久保田は歴史を俯瞰的に見る事と自分が作品を作る上での方法論とどっちとも言い難い語り方をしているなと思う部分が多かった。ただこれは自分が作品制作をするようになってしまった以上解決がなかなか難しい問題で自分もよく悩むところではある。)

金を稼ぐためにアートを/アートをするための金を

少し話を戻して、エンタメとメディアアートの話をするとエンタメ的メディアアートの批判は「金を稼ぐためにアートを利用しやがって」的言説が多い(主観)と思うのだが、これはむしろ逆で本当に作りたい作品を作るための現実的、切実な方法としての選択から生まれてきたものの方が多いように思えるのだ。

久保田の言うとおりエンタメでもビジネスでもない作品制作は世の中に必要だ。何のしがらみに巻き込まれることもなく自由に制作することは保証されている必要がある。しかしそれがエンタメやビジネスでないアートを言説によって補強していくという形に持ち込まれるのはどうも違う気がする。

どれだけ批評によって作品の歴史的重要度が担保されても、アーティストは飯を食っていかなきゃならない。

では自分のためだけに作品を作りたいアーティストが、ビジネス的なものを抜きにして今どうやって生きているかといえば普段の仕事の合間に制作するか、アカデミアに残って大学のお金で何かを作るか、補助金やアーティストインレジデンスなどNPOや国、企業に与えられた機会をうまく使ってサバイブしていく、以外の道は開拓されていないように思う。

特に作品単位で作品を売って生きていく事が難しい現代美術/メディアアートの領域では。むしろそういった与えられた資源を受け取って生きていく事の不自由さから逃れるがためにビジネスを始めお金を稼ぎ、本当に自分のためだけに作品を作る、という考えの人いていいはずで、いま商業主義的と言われているアートはそういう意識から出てきているところは多いはず。

まとめ(まとまらない)

何を言いたいんだか段々わからなくなってきたが、要するにアカデミアの人間はエンタメ的メディアアートを批判する傾向にあるし、エンタメ的メディアアートの当事者はアカデミックなメディアアートを批判する傾向にあるけどそこの対立を煽ったところでどうにもならないということが一番思うことなのだ。どっちの立場もそれなりに真面目に考えた上での選択でやってる以上それなりの理由はある。

自分はチームラボで2年ちょい仕事をしていろんな展示に関わって、YCAMでインターンをして今は大学院で作品制作を研究としてやる身として、(一般的には)商業的であるところとアカデミックなところと両方に足を突っ込んでいて、その両方の内状をきちんと理解している人は思っていた以上にお互いに少ない。そういう立場として考えたことは一応文章とかで残していったほうがいいのかなと最近は思っている。

とかく現状メディアアートを取り巻く言説は「制作者としての美学的議論」「アーティストがお金を得て制作を続けるための方法」「作品をどう後世に残すか(批評、文化史、アーカイブ)」あたりが絶妙にどれも切っても切れないせいでごちゃごちゃになっているという印象がある。

個人的には西洋美術史レベルできれいに統一された美術史がメディアアート史においても可能かと言われると全く無理だろうし、「メディアアート原論」も同様に数十年単位で揺るがない原論もまず無理だろうと思う。

2010年代から見た90,00,10年代のメディアアートと呼ばれているもの各論をプレイヤーなり批評家各自が積み重ねて、2020年になったらその時代から見た90,00,10,20年代の、、みたいな積み重ねをした上でしか成立しなさそう、と思っているところであり、そもそもその各論すら全然出てきてないじゃんみたいな状況にあると思っているので、「メディア・アート原論」に続いて「お前がお前自身のメディア・アート原論を紡いでいくんだよ!」とどんどん論じる人が増えていくことがまず最初なのかな、その意味で「メディア・アート原論」は意義深いのではないでしょうか、自分も修論頑張って書きます、という総合的感想で締めようと思う。

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