小説の時間、映画の時間、音楽の時間

published: 2018-08-29

last modified: 2018-11-28

NY行きの準備は一ミリも整っていないが、映画「ペンギン・ハイウェイ」をみた。とてもよかった。

非常に良かったので文庫本の原作を買ってきて家で一気に読み切ってしまった。

それとともに最近小説が読めるようになってきた話の続きで、能動的な時間の進み方と体験の不可逆性の話。特にネタバレとかはないです。

最近知人と話していて「ペンギン・ハイウェイ」面白そうなので見に行きたいんだよね、と言ったら原作読んだことある人からは結構微妙な声出てるよ、原作読んでからのほうがいいよということだったので原作を読まずに見に行くことにした。

仮に原作のほうが良いなら先に映画を見てあとから原作を読んでああより面白かったとなるならその方が得ではないか。(これは「メッセージ/Arrival(あなたの人生の物語/Story of your life)」でそうだったパターンである)

結果原作も非常によかったのだが、映画版のほうがイマイチだったかと言われるとそんなことは全く無く。

映画という時間軸のあるエンターテインメントに収めるならば非常にうまく(ものすごく大きな改変をすることもなく)やった方だと思った。

小説や漫画の映画版には全てつきものの問題だけれど、ストーリーを全てそのまま脚本に起こしたところで上手く行くわけではない。連載物の漫画は分かりやすけれど「ペンギン・ハイウェイ」の場合はそのまま起こすと多分140〜150分くらいになっただろうなと予想するけど、実際には120分弱だった。

140〜150分でそのまま見続けると、多分微妙にテンポが悪くなってしまうんだろうなと自分は感じたが、ここは人により判断も分かれそう。「君の名は。」とかは映画発なのでこの辺の時間の設計が恐ろしくよくできているし、実際かなり予め緩急を決めて演出を組んでいったとインタビューとかで言っていた(はず)。


小説ではこの長さで行けるのに、というか小説として読むにはボリュームとしてちょうどいいのに映画だとちょっとばかりオーバーフローしてしまう。

こういうプラットフォームの違いについて、ちょっとずれるけどポップミュージックだとなんとなく5±3分くらい、がちょうどいい気がするけど、ちょっとインプロとかのライブセットになると短くて20分、みたいなことを平気で受け入れてしまう、ようなことと近いように思う。

こういう話を延長して「時間の進め方の能動性と受動性」、と「一度目の体験は一度だけ」いうことで最近ずっと考えている。

本を読んでいて面白いのは自分が読まなければ物語が先に進まないからだと思う。面白いと書いたが自分が小説を全然読めない人間なのはここが壊滅的に苦手だからだという仮説がある。

音楽や映画を体験するときの面白みは例えば車(の後部座席)とか、電車とかジェットコースターに乗って、乗ってさえいれば勝手に自分の傍を景色がビュンビュンと通り過ぎていくことの快感に近い。

小説の場合は歩きでもいいし、車を自分が運転するのでもいいし自転車でもいいのだけど、とにかくハンドルを握っているのは自分なのだ。歩きだと当然後になるほど疲れてくるのだけれど、問題はどの乗り物に乗るのかも自分に委ねられていて、どれに乗ったら一番いいのかよくわからないのだ。そうしてなんとなくゆっくり景色を見て回ったほうがいい様な気がして脚も動くし乗ったこともないのに車椅子を選択してしまって、すぐに腕が疲れるうえにそのうち自分が結局今どこを進んでいるのかもよくわからなくなってしまう。


音楽には終わりがあるの、とは最近聞いていたピチカート・ファイヴの中の歌詞だったような気がするが、ともあれそのとおりで大抵の音楽には終わりが一応はある。これはなんとなく悲しげな歌詞に聞こえるけれど実際は終わりが無い音楽のほうが恐ろしい気がする。

インプロのセッション聞いていて時々「これもしかして永遠に終わらないんじゃないか、、、」という瞬間があって昔あったインプロへの苦手意識って多分それもあるんだろうな、とか考えたりする。今もたまにあるな。

一方小説は途中で読むのを止めてしまえば再開して読み切るまでは無限に終わらない。音楽を一時停止した場合はそこで一旦終わり、レジュームすればそこがまた始まりという感覚があるけれど、何故か小説の場合は「自分で読み終わらなければこの話は永遠に終わることが無いのだ・・・」という切迫感がある(あるんです)。

学術書を読んでるときはいきなり後ろのまとめだけ読んだり、訳者解説とかを読んじゃって話の流れを掴んだ上で頭に戻って来たりできるので、まあ読めなくはないみたいな事ができる。でも小説はそれやったら元も子もないので、なんだかビクビクしながら読むわけである(でも、一般に小説を読んでてワクワクするみたいなことってこれとほぼ同義ですよね多分)。

そういう意味で今回「ペンギン・ハイウェイ」は映画を見ちゃった上で読んだので、それはもう読みやすかったということなのだろう。ああ無事読めてよかったですねという安堵感とともに、映画版を見ちゃった時点で全くストーリーを知らずに小説を読み始めることはできないんだなあという当たり前のことを残念に思ったりする。

こういう話をすると「毎回その作品を体験するお前は別人なのだからその作品体験もまた別物なのだ」という話になりがちな気がするのだけど、そんなわけ無いだろがと思う。「作品を体験するときの体験者の状態」と「体験者が既に作品を一回体験しているかしていないか」ってファクターはオーダーが違いすぎて前者などあっという間に誤差の範疇に収束してしまうだろうに、というとにかくそういう不可逆性に対してのやるせなさみたいなことをずっと感じている。


小説をポチポチと読むようになってから、小説を読むような音楽体験とはなんだろうということをずっと考えていたけれど、それはやっぱり演奏することが一番近いように思う。

自分が演奏しなければ時間は進むことはない。であれば、小説を書くような音楽体験とは一体何なのだろうと思ったりもする。

世の中にはテキスト型の楽譜などいくらでもあるし、それを書いていることと小説を書くこと、テキストで書かれた作品を上演することと小説を読むことに幾ばくの差があるんだろうか。

グレー

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