再び、2年ぶりの年報です。隔年報に改名した方がいい。今回はトピックごと、ざっくり時系列で。
美学校レクチャー(2月)
ライターのimdkmさんにお誘いいただいて、 「基礎教養シリーズ〜ゼロから聴きたいテクノロジーと音楽史〜」という単発レクチャーで講義をさせてもらいました。博論を書いて以降理論や歴史・バックグラウンドなどをまとめて話す場面がなかったので良い機会をいただけました。追加のチケットバックが出るくらいには対面・アーカイブ含めチケットもよく売れたようなのでありがたいことです。実はこれをきっかけとした単著の企画がじわじわと進んでいるので、早いとこ皆様にお知らせできるように頑張ります。
授業
昨年度の年報が書かれなかった一つの理由でもありますが、2023年度レギュラー授業を前後期それぞれ一つ担当することになったので、 毎週授業資料を作ってはぶっつけで挑むというのを繰り返していました。今年も同じ授業を継続したのですが、意識的に去年と同じ内容を繰り返してみようということをしてました。去年よりは研究に集中したいというのの言い換えでもあるのですが、まあ一つの定点観測として価値があるのかなとか思い。どこかで内容をアップデートしていく必要はあるんですけど、じゃあそれをいつ、何を変えるかって真面目に考えると結構難しいもんです。
来年度はいろいろな都合で今年よりは担当授業の割合が減る予定です。結構面白い内容の授業を作れた実感はあるんだけど、それを自分以外のひとも担当できるようにできるか?とかは結構なメタクリエイション感があってやりがいがありますね。
SIDE CORE「コンクリート・プラネット」
SIDE CORE 展|コンクリート・プラネット|ワタリウム美術館
SIDE COREというコレクティブの「under city」(もともとは「road work ver. under city」だったかな?)という映像作品のサウンドデザインを、2023年の3月に最初にやったのですが(なのでこれも最後の年報の後ですね)、こんかいワタリウム美術館での個展仕様にアップデートしたものを作りました。オリジナルは屋外での2ch音声Mixで作ってたものを、映像5面に合わせて音声も全部の画面+天井から出てくるように作り直しました。
ワタリウムではじめに「なんか使えそうなスピーカーってありますか?」と聞いたら唯一あったのが坂本龍一さんの設置音楽展の際購入したムジーク609のセットとのことでで転げ落ちそうになりました。ムジークとディスプレイ内蔵スピーカーが同時に鳴ってた作品は後にも先にもこれくらいなんじゃないだろうか。
しかし反省点も非常に多く、まず再生系統を5面映像に対してほぼ全部BrightSignで頭出しだけ同期+αでMaxから音再生+照明制御という仕組みにしてしまったので、タイムラインの修正があるとバラバラにレンダリングし直したものをBrightSignに転送する、というワークフローになり、待ち時間が非常に長いのが問題でした。勉強にはなったし次回以降やるには安定して再生できるからいいんですけどね(序盤一か月は運用トラブルもまあまああったのですが、後半はほぼノートラブルで動いてくれたみたいでした)。
もう一つは、もともとが屋外で小さい音が使えないために結構コンプで全体を叩いてダイナミックレンジせまめの作りにしてたのですが、それを屋内用でレンジを広げなおした結果、結構ホラーというか怖くなってしまったため、音量の調整にもかなり苦労しました。これはなんというか、普段から音作りの引き出しが多い方がいろいろできるんだろうなという反省もあり。ともあれ、それなりに長期間、多くのお客さんに見てもらえる作品の音作りをできるのは気合が入るものです。
論文
今年は2本論文が出ました。
『メディウム』第5号|特集「ジョナサン・スターン」 - 『メディウム』編集委員会 - BOOTH
12月頭に出版された雑誌「メディウム」第5号ジョナサン・スターン特集に「無いことは口にできない、口にしないなら無い?——ジョナサン・スターン『減退した能力——インペアメントの政治現象学』」というレビューを載せました。レビューと言いつつ2万字近くあります。はじめスターン特集の投稿募集を見たときは別の「音楽産業など存在しない」という未邦訳の論文の内容と自分の研究内容を絡めた話でもしようかなと思っていたのですが、後述のCCBTとの共同研究もあり障害をテーマにした「Diminished Faculties」を読みなおすにつれ、自分の話なんかするよりもまずこれを日本語圏に紹介することを優先した方がよいと思い、レビューを書くに至りました。
というのも、博論でオルタナティブなテクノロジーの作り方を議論する中で、そういうのの理論的下敷きをだれが作ってきたのかと言えばフェミニズムやクィア理論、障害学とかの分野であったにも関わらず、そこをうまく掘り下げられてない(もっと言えば、ただ乗りしている)感じが拭えなかった反省があり。「Diminished Faculties」はそこに向き合うためのヒントが詰め込まれていたように思ったのです。あと、がっつり人文系の雑誌投稿で査読をしてもらったことがなかった(厳密にいうと今回は「査読」ではなく「審査」のカテゴリ)のですが、執筆のプロセスの一環として査読が機能しているという実感を初めて持てたような気がします。ともあれ、興味のある方は是非読んでみてください(電子版は今後発売予定です)。
Lambda-mmm: 同期的信号処理言語のためのラムダ計算を基にした中間表現 - Matsuura Tomoya|松浦知也
やや遡りますが、11月末にはイタリアで行われたInternational Faust Conference 2024でmimiumの理論部分を掘り下げた発表をしました。ここ2~3年近くRustでmimiumのコンパイラを作り直していたのですが、改めて意味論を理論的に掘り下げてから実装するか、ということをやっていて、その一つ目の成果がようやく出た形です。ほぼ同内容のものを日本語圏向け、言語設計コミュニティ向けに再構築したものを年明けのプログラミング・シンポジウムで発表予定です。
mimiumを作りはじめたとき、10年スパンで時間がかかるものを作ろうということを考えていましたが、作り始めたのが2019年なのでもう折り返しに入ることになります。おそろしい話や。相変わらずまだまだ実用的に役立つ言語というにはまだまだ遠いのですが、Web版でも動くようになりはじめたので、そんなに焦ることもなくこれからも楽しく開発を続けていけるといいなと思います。
今年は夏ごろゴリゴリ開発を進めていたのですが、その間コアな機能も含めてyutaniさんがめちゃくちゃコントリビュートしてくれたのが非常に助かりました。きちんとPRベースで開発すると改修部分の分割もまじめにやるし、モチベーションの維持にもつながるもんです。1人と2人じゃ大違いですね。
というわけで、今年は1つの目標でもあった全然違う分野で並行して論文執筆をするというのをやれたのがよかった点です。(実際に執筆していたのはスターンのレビューが5月ごろ、mimiumの論文は7~8月ごろで分かれているんですが)少しずつ、何を書くのかわかってないものに対してスケジュールのアタリを付けることができるようになってきたというか、「書くことによって考える」というのが身についてきたなという実感があります。
共同研究
音を光や映像として体験できる「VisVib」から考える、インクルーシブな音楽とそのための道具とは? - サンレコ 〜音楽制作と音響のすべてを届けるメディア
これもつい最近レポート記事が出たのですが、CCBTと東京文化会館、芸大の3者で共同研究を2年近くやっていました。ろう・難聴児を対象に含めた音楽WSのためのデバイス開発を主にやっていました。この報告会でも話したのですが、今回技術的にやっていることは20年前とかでもやろうと思えばそれなりにできた内容で、でも技術の民主化とかいうわりに20年経ってもプログラミングの経験が全くない人がピエゾで音量検出とかってまだまだハードル高いっすよね、いつになったら下がるんですかねえ、みたいなことを考えていました。これはこれで共著で論文書いているところなので来年度にまた報告できればと。サンレコが丁寧にレポートしてくれてありがたかったです。
と、共同研究とはほぼ別件なのですが、夏にはCCBTで行われた「オーディオゲームセンター + CCBT」という展示のためのテクニカルキーワード解説の執筆+ハッカソン参加という形の参加もさせてもらいました。この辺をやりながら先述のスターンのレビュー執筆ができたのはいろいろと良いタイミングでした。
サーバー
昨年度年報を書かなかった理由そのXなのですが、昨年くらいから自宅サーバーを運用し始めています。夏ぐらいに予算10万円ぐらいのNASマシンを組みまして、Mastodon、BlueskyのPDS、Vaultwarden、Gitea、NextCloud、PhotoPrismなどいろんなものをホストしてみています。
授業資料(https://teach.matsuuratomoya.com)と、Quartz(Obsidianのメモをいい感じに公開できる仕組み、 https://garden.matsuuratomoya.com)のWebサイトも自宅からホストするようにしています。このQuartzが非常に良くて、EvernoteからTyporaやらWorkflowyやらメモ帳システムを諸々乗り換えてきて、ようやく書くためと思考を整理するためと見返すための機能が同時成立しはじめてきたので、わざわざタイトルを付けた記事をこうして書くことがあんまりなくなってきてるんですよね。最近書いたことが見たい方はgardenの方を見ていただければと思います。
このメインWebサイトはまだNetlifyに乗っけてるんですが、自宅サーバーも2年近くかけてわりと安定して動くようになってきたのでそろそろ移行しようと思っています。メールだけは仕事に障害出かねないので当分さくらインターネットで運用している予定です。
年度末の宿題として、オフサイトバックアップをAWSのGlacier Deep Archiveに作りました。一番肝心なところでCloudflareとかAmazonとかに頼っちゃうことになるのなんなんだろうなー、みたいなことを今後考えていきたいです。あとはぐちゃぐちゃに立ち並んでいるdocker-compose.ymlをGitOpsできるようにしたい。
最近はDusk OSみたいなCollapse Computing周辺の話題が気になってます。Solarpunkとかも。
体力と引き受け
それで、昨日一昨日はインフルエンザでぶっ倒れていました。今回は高熱が一晩で済んだのでマシな方ですが、去年も12月にコロナをやり、7月ぐらいにも2度目のコロナをやり、一番感染症が蔓延してた頃は全然大丈夫だったのに今更免疫がボロボロになってます。やっぱり運動量が減っている気はするので原因それかな。来年はもっと自転車に乗りたいです。
今年度になってからようやく(部署に人員が増えたのもあり)本業に少し余裕が出て自分の研究に手が回るようになってきたので、いろいろアウトプットできるといいですね。
ところで、少し前に坂本龍一展に足を運んだのですが、予習として80年代のTV WAR周辺の映像作品とかを見たり、松井さんと川崎さんの本(「坂本龍一のメディア・パフォーマンス」)を読んだりしてから見たので、まあいろいろ思うところがありました。
自分はもともと坂本さんの後年のインスタレーションや展示作品群に対して、技術の使い方がナイーブすぎてあまり好きになれないという感想を持っており、それは今でもあまり変わってないのですが、80年代の時点でテクノロジーと政治・戦争に関して作品・パフォーマンス中の言及をそれなりに経た上であそこに辿り着いてるのだとすると、良い悪いは別にしてそうなるのは納得できる、という印象に変わってきました。「引き受ける」ことを進んで選んだ、あるいは選ばざるを得なかった人たちが世の中にはいる、ということを考えざるを得なかったです。
松井さん監修のアーカイブコーナーで坂本さんの80年代のひとことメモがたくさんあって(接写禁止)、自分の目に止まった2つは「もうある程度の役割は果たしたので作ることに注力したい」みたいな奴と「こんな稼業を辞めたとして、他に何ができるだろう」の2つでした。そういう人間臭さが見えるところは結構好きなんだけども、後年の坂本さんの作品に関しては私が知っている人たちが滅茶苦茶関わってて、しかし私は坂本さんの事を知らない、みたいな感じなので坂本さんの作品、として見ることはもはや難しいのもありましたが。
なにせ80年代の坂本龍一といったらいまの自分と大差ない年齢なわけですけども、ここ数年の自分の仕事を考えると、なにか引き受けることから都合よく逃げているような気にもなるし、一方で早くに引き受ける側に回りすぎてしまった気もするし、という両方の感情があり。
来年度はまだ大学に所属しているのですが、来年度いっぱいで一旦区切りとなる予定です。その先をどうしようかなーというのが目下の悩みなのですが、どうあれ大学からは一度離れて、しばらく取り組めていない演奏とか楽器制作とかの勘を取り戻しながら一度フリーランスに戻ろうかなと思っています。相変わらずインディーな組織のつくりかたには興味があるのですが、もともと興味のあったインディー楽器メーカーのようなスモールビジネスみたいなことよりも、寺子屋とか私塾に近い、それでいて非営利な組織のありかたを真面目に考えることに興味が湧いてきています(抽象的)。
久しぶりに全く推敲をしないのと、ですます調で文章を書いたら少し気分が良かったです。来年もよろしくお願いします。SNSは最近Mastodonがメインなのでそちらによろしくお願いします。